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写真と記憶をめぐって

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ここ数年ほど、自分のものの見方を大きく変えるような経験を通じて、わたしは写真について考えることが多くなりました。写真とは、ある対象をイメージとして「記録」するだけではなく、それが存在した時間を「記憶」するものでもある。そう気づいたとき、以前から折に触れて考えてきた「記憶」というテーマと「写真」が結びついて、このエクリの記事へとつながっていきました。

「記録が時間に抗うものだとすれば、記憶は常に時間と共謀するものだと言ってもいいかもしれない」— これは、2年ほど前にこのブログでわたしが書いた言葉です。今回の記事でも、わたしは写真に潜む「記録」と「記憶」の両義性について書いていますが、それについて新たに考えるきっかけをくれたのが、19世紀末から20世紀にかけてパリの街を撮影し続けた、ウジェーヌ・アジェの写真でした。

彼が撮ったのは、自らの創造性が発揮された芸術作品としての写真ではなく、美術館や図書館、歴史協会のような研究所などから依頼を受けて撮影した、地誌的な「記録」としての写真でした。そこに、アジェ自身が意図していなかった芸術性を見出したのは、彼が亡くなる数年前に知り合ったマン・レイなどの若いアーティストたちでした。鮮烈なコントラスト、深々とした陰影、前景から背景への重層性などが静かに写し出された、アジェの写真の数々。確かにそれは、見る者を郷愁や懐古に誘い、「記憶」を想わせるような芸術性を醸し出しています。

彼が残した作品のなかで、わたしがとりわけ心惹かれた一枚の写真があります。パリのリュクサンブール公園の一角に、ぽつんと置かれた空椅子を写したものです。興味深いことに、アジェ以降の20世紀中頃には、多くの写真家がこのような「庭園の空椅子」がある風景を撮影したと言います。

LuxembourgEugène Atget “Luxembourg” (1902-03) – The Museum of Modern Art, New York

アジェの写真集の編纂を行なったことでも知られる美術批評家、ジョン・シャーカフスキーは、このモチーフの魅力をこう語っています。「庭園の空椅子」は、誰かが来るのを待ちながらそこに座っていたひとがいたこと、あるいは、いつかそこに腰を下ろしに来るひとがいるかもしれないことを、象徴するものであると。シャーカフスキーのこの言葉は、写真が「記憶」した一瞬の時間が、その過去と未来にも流れ出すことを、わたしに教えてくれました。

アジェ自身は、自らの写真が芸術的に鑑賞されるのを拒む姿勢を貫き、「それ(写真)は記録資料(document)であって他の何ものでもない」という言葉を残しました。それでも、わたしにとって彼の写真は忘れがたい芸術作品であり、今では自分の「記憶」の一部となっているように感じられます。


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